敬うとは、
自分より優れたものの一切を受け入れてこれを吸収し、
その一切を奪いとって、
ついにこれを打ち越えようとする強力な魂の、
必然な現れといってもよいでしょう。
『修身教授録』森信三著(致知出版社)
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仕事の課外授業-568「尊敬の証」より
みなさんおはようございます。
只今 4:30
昨日は、午後から息子と市民プールに行って戻ってきてから
3家族合同食事会の為、日野駅前の麒麟坊へ
呑んだ食べて帰宅。風呂に入って撃沈という流れだったので
早起きしてこれを書いています。
早速ですが、「尊敬の証」行きましょう!
いやはや、今回はとても深い内容ですね。
夜明け前の自分のデスクで頭をうならせてます
というわけで、今回のキーに入る前に少し寄り道して別の書籍から
引用しようかと思います。
燕雀に(えんじゃく)に鴻鵠(こうこく)の志は分からぬ。
英雄でなければ英雄を知ることもできない道理である。そこで人を識ると
いうことは畢竟(ひっきょう=つまるところ)我が内に探知することであ
って、我れみずからの修養学問のないところに、人を知り人を用うること
の行われるわけはない。
『いかに生くべきか 東洋倫理概論』(安岡正篤著、致知出版社)より引用
燕雀と鴻鵠の話にかけて読み解いて行こうと思います。
それで、今回のキーはコレですね。
「真の敬とは、生命の最も強い働きに他ならない」
今回本文中にもあるように、
一般的に「尊敬」するというと
「自分には、とても真似ができない!」
という感じが強いですね。
更に、少しまがった取り方をすれば、
すごいけど、真似できない(っていうか真似する気もない)
みたいな使い方も横行している気がします。
しかしながら、真の「敬」とは、
相手のすべてを受け入れるということ
相手のすべてを受け入れるとは、
相手のすべてを吸収しようということ
であり、したがって、真の敬とは
こうなりたい、
この様に生きたい、
このように尊敬されたいという
生命の最も強い働きに他ならない
ということですね。
ここまで書いて、やっと 燕雀と鴻鵠 がでてくるのですが
とある人が、
「すべての人は燕雀であり、鴻鵠なのではないか」
といっていました。
自分は今は燕雀であるが、
英雄たる鴻鵠を尊敬し、その全てを吸収し、そうなろうという
生命の強い動きの中で、いつの間にか自分自身が鴻鵠になり
燕雀から尊敬を集められる存在なれるだろう
ということなのかな?と想像しました。
僕自身も未だ燕雀のせいか
相手の全てを受け入れるような巨大な鴻鵠に出会っていない
(出会っても気づいていない)のですが、
先ずは、色々な人の尊敬できるところを
丸ごと呑みこむところから初めてみようかと思います。
というところで、きょうのところは以上。
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